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   ■マニラ会の活動・写真

バギオ育英資金譲渡式典に参加して(第25回) 鈴木道夫

今年もあれから1年が過ぎ清水理事と共に参加してまいりました。

5月1日(土)13:15発のエアコンバスはパサイ市のビクトリーライナーから出発した。

バギオはマニラから250kmの地点にあるフィリピン、ルソン島の避暑地と今はなっているが明治38年(1905年)に日本の大先輩がアメリカ統治時代にケノン少佐のもとで42kmの道(ロザリオーバギオ間)を完成させしかも700名の日本人労務者が犠牲になった貴重な道路である。

私がJICA(日本青年海外協力隊)としてフィリピンに赴任される前1969年に今の天皇皇后両陛下に皇居でお会いになった時彼らが“貴方がフィリピンに行かれるのですか?バギオはとても涼しくて良い所です。まるで軽井沢の様なところです。”といわれた言葉は忘れられない。

標高1,500mの山頂に40万人の町がある.最近は現住民の方より近くの州やマニラから移った人、学生が涼しいので勉強に来る人のほうが多いような気がする。

ここバギオは明治時代以降、開拓者としても多くの日本人が大苦労しながら切り開いてきた。また日本の奥様方も来て常温18度と良い恵まれた気候を利用して野菜作りをし、100年以上たった今は、バギオ野菜としてマニラやその他の都市への欠かせない野菜の宝庫となっている。

前はフィリピンの人はほとんど野菜を食べなかったがそのお陰で今となっては学校や健康保健省なども野菜の大切さを力説し国民の健康や体力の源となっている。そしてダバオについで日本人の血のつながった2世3世等の人が多いのはそこにある。

 いつものアボン多目的ホール(奨学金譲渡式がおこなわれる)に近いバギオプリンスホテルに泊まった。毎年夜は冷えるのか電気ストーブも部屋においてあったが今回はそれが無く、夜は快適な眠りであった。朝は早めに起き、むしろ夜より冷えていた。 
朝8時半頃、清水理事が車で迎えに来られたがあるって70mも行けば会場である。この建物は昔シスター海野(ウンノ)という女性がおられここバギオの貧しい日本人とフィリピン人のために貢献された立派な方がその為の多目的ホールということで建てられ私たちもここを利用させていただいている(正確には“シスターテレシタ海野記念ホール”)。

 会場にはすでに50名近くの父兄と子供たち、アボン関係者の皆様がいすに座って待っておられた。マニラ会代表の私と清水理事そしてバギオ会からの代表の
マセ女史が壇上に座り司会のリッキーサンにより式次第は進められた。

  1.開会の言葉:マニラ会(清水財団)スカラーの母親(カストロ夫人)
  2.両国歌斉唱
  3.歓迎の言葉:マニラ会(清水財団)スカラーの母親(タグイバ夫人)
  4.スポンサーからの言葉:マニラ会(鈴木副会長)
  5.お礼の言葉:マニラ会(清水財団)スカラーの母親(バサリ夫人)
                    スカラーの母親(アドッグ夫人)
  6.育英資金及び学用品贈呈
  7.閉会の言葉:代表理事長(エデイス。カバニャス女史)
 尚今回はサイケ/ハジメ様も個人で参加され
    マニラ会:10名(マニラ会3名、清水財団7名)
    バギオ会: 2名
    サイケ様: 2名
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    合計14名のスポンサーであった。

またマニラ会10名(マニラ会3名、清水財団7名)の奨学生内訳は下記の通りです。(別紙A参照)
そして各生徒から成績表とスポンサーへのお手紙をいただいておりますが紙面上
2人の成績表および感謝のお手紙をご紹介させていただきます。(別紙B&C)

大槻会長が申されたように卒業後の様子を手紙でマニラ会へ知らせてほしい旨は
代表理事長のエデイス。カバニャス女史に伝えその約束をとった。
今回はバギオ会の奥田氏とも逢うことが出来、大槻会長からのメッセージを彼に伝えることができた。
 式は10時すぎに閉会しその後皆さんとの団欒のときを過ごし午後1時に清水理事長の車でマニラに向かった。北の高速道路はパンガシナン州のロサレス(カルメン)まですでに完成しておりベンゲット州入り口のロサリオまで完成すれば
マニラーバギオ間は4〜5時間で行けるようになるだろう。
 今回も清水理事大変ごくろうさまでした。

                          マニラ会副会長
                            鈴木道夫